父との記憶をたどる中で、あることに気づきました。思い出すのは旅行やプレゼントなど、特別な出来事ばかり。でもきっと、僕はそれ以外の日々の中でも、たくさんの愛を受け取っていたんだろうなと思うのです。

ただ、それがあまりにも当たり前すぎて、記憶に残っていないだけなのだと。

今、僕が子どもたちにしていることも同じかもしれません。毎日ごはんを作り、一緒に食べ、遊び、褒めたり、叱ったりする。そんな日常の営みは、彼らの記憶にどう残るのか。

もしかしたら何も残らないかもしれません。でも、それでいいと思いました。

「かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻む」と言うように、受けた恩を心に刻むのは、案外難しいことです。

愛は、与えただけ伝わるものではない。伝わるのはきっと、ほんの一部。だからこそ、百伝えたければ万与える。万伝えたければ億与える。それくらいの覚悟で、与え続けるしかないのかもしれません。

家族を支えることも、子育ても、家事をすることも、どれも「して当然」とされる日々の営み。そこには評価も感謝もないかもしれないけれど、そこから始まるプラマイゼロの地点から、少しでも「幸せだな」と思える瞬間を積み重ねていきたいと思います。

それは特別なイベントや記念日ではなく、日常の中にこそあると思うのです。何気ない会話、笑い合った時間、肩を並べて歩いた道。

そういうささいな出来事の積み重ねこそが、かけがえのない幸せだと、心から思います。

両親から受け取った”記憶なき愛”を、

妻や子どもたちに、湯が沸くほどの熱い愛で溢れさせるって決めました。

雨で大地も緑も喜んでいる!

愛が溢れている!

あなたもいってらっしゃい!